歴史的事実について
楽曲 「ヒロシマ・クライシス」、「神風」 〜君を守りたい〜
この二曲は、"原爆"と"特攻"をテーマにした曲です。
二曲ともあまりに大きく、且つ深いテーマであるため、私ごときが歌うのは、無理なのかもしれません。
私は実際に広島、長崎そして鹿児島の知覧、山口県の大津島に行き、各平和資料館を見て回りました。その時、「原爆も特攻も過去の出来事として終わらせてはならない」「やらなくてはいけない」「音楽で伝えなければいけない!」という強い思いが、当時の私の心にこみ上げてきました。すべてがその時、その瞬間の直観的な思いであるため、言葉でうまく表現することはできませんが、その地を訪れ、平和資料館を見て回ると、心に深く訴えかけてくる"何か強烈なもの" が確かにあるのです。私はその時、私が感じた"何か強烈なもの" を歌で表現し、微力ながら音楽を通して平和を
訴えかけていこうと決心しました。
私は決して戦争を肯定したり、特攻を美化するつもりはありません。ただ、日本人として、先の大戦(太平洋戦争)であった史実を学び、それを真摯に考えているのみです。
そして戦争体験はない50代の私ですが、もし私にできるならば、次世代を担う若い世代へこの歴史的事実を、音楽という形で語り継ぐつなぎ役になりたい。それと同時に若い人たちと共に平和の尊さを考えていきたい。そう思うようになりました。

今日の平和な時代を生きる私たちは、戦争で亡くなった方々がこの平和の礎になっていること、そして戦争で亡くなった方々の平和への願いと想いがあることを決して忘れてはならないと思います。この二曲を鎮魂歌として歌うことは、戦争体験もなく、またそのような力量も私の歌唱にはないので無理ですが、ただ、ただ先の大戦で亡くなった方々のご冥福をお祈りすると共に、私なりの万感の想いを込めて、精一杯歌いました。

−参考−
知覧ー旧日本陸軍 "神風"の特攻基地があった場所(鹿児島県・知覧町)
大津島ー旧日本海軍 "回天"の特攻基地があった場所(山口県・周南市)

リンク集に各平和資料館の公式HPをリンクしてあります。
そちらをぜひご覧頂きたいと思います。

「ヒロシマ」「神風」 ダウンロード&歌詞 へ


終戦60年特別原稿(1) 「特攻隊員の最後の言葉,60年の時を経てネット上で…」
 記載…2005.08.23
去年の二月の話になります。
友人の紹介で特攻をテーマにした映画「月光の夏」の原作・脚本を書かれた毛利恒之先生とお会いする機会がありました。当サイトにUPしてある楽曲「神風」を事前に聴いて頂いたうえで、特攻とこの曲についての話を始めました。その中で私と毛利先生がお互いに驚いたエピソードがあり、それも含めまして、ある特攻隊員の方の最後の言葉を皆さんにぜひお話したいと思います。本来は去年の二月にHP上で皆さんにお話しようと思っていたのですが、あえて終戦60年の今年にしました。

楽曲「神風」の歌詞の中に
「人が愛し合い 愛する者のために犠牲になる心ある限り
民族(いのち)は生き続け いつかは繁栄(よみが)える 
それを信じながらぼくは今 征(ゆ)こう」

という歌詞があります。
今から約10年以上、前のことですが、TBSの終戦特別番組で「特攻」を取り上げました。この番組の中で、生き残った隊員の方がご自分の先輩である特攻隊員の方が自分に残していった言葉として、次の言葉をテレビを通して紹介しました。
「人が人を愛し、愛する者のために犠牲になる心のある限り、民族が滅びることはない。それを信じて俺は行く」
こう言って出撃していったそうです。以前から特攻をテーマにした曲を書こうと思っていた私は、すぐさまメモ帳か何かに書きとめました。そして曲が出来上がった時、2番のサビのところで、この言葉を使わせて頂きました。ただ、メロディーに合わせて歌詞を作ったので、残念ながら意味は同じでも曲と噛み合ない部分は表現を変えざるをえませんでした。

この話を毛利先生にしたところ、先生は驚いておられました。
毛利先生も私に会ったらこの言葉を私がどこで知ったのか、ぜひ聞いてみたいと思っていたそうです。そして特攻隊員の方のこの言葉は、遺書として出版されている本に載ることもなく、ただこの日、放送されたこの番組の中にだけ存在する言葉でした。実は、この特集番組の企画をTBSから依頼され、制作したのは毛利先生でした。
そして番組中、『先輩特攻隊員の言葉』としてこの言葉の存在を証言した元隊員は大貫さんという方で、歌手の大貫妙子さんのお父上であるということを毛利先生から教えていただきました。
大貫(父)さんもその言葉を先輩特攻隊員から聞いた時、すぐに紙の切れ端か何かに書き留めたそうですが戦乱のさなか故、書き留めたものを無くしてしまわれたそうです。それでもこの凛々しい言葉を、はっきりと覚えていらしたのでしょう。
おそらく、当時この言葉と想いを同じくする16歳から20代前半の若者たちが、愛する人を守るため、祖国を守るために出撃していったのだと思います。

言葉は、言霊ともいうそうです。
人が死を覚悟し、万感の想いを胸に後の世の人々の幸せを願い、民族の繁栄を祈って話した言葉というものは、たとえ短くても強烈な印象と説得力があります。
そしてこの言葉には一度聞くと脳裏に焼き付き、忘れることのできない何か独特な響きがあります。戦後60年の歳月を経て終戦60年の今年、日本国、繁栄の象徴であるインターネット上でこの言葉を今もう一度、よみがえらせたいと思います。

「人が人を愛し、愛する者のために犠牲になる心のある限り、
民族が滅びることはない。それを信じて俺は行く」

終戦60年特別原稿(2) 「原爆と二人の伯父、そしてあの日…」
記載…2005.08.23
私の出身地は山口県の瀬戸内海に浮かぶ周防大島という島です。
私には五人の伯父がいます。今は一人を残し、四人とも他界しています。
長男の名前は豊(ゆたか)といい、島で商店を営んでいました。尺八の先生で弟子もいて、町の催しものなどがあると必ず出演していました。
そして、次男は彦人(ひこと)といい、私は特にこの伯父に可愛がってもらいました。広島に住んでいたので私たちの間では "広島のおとうちゃん" という名前で呼ばれていました。釣りが好きで、夏と冬には必ず広島から来て、私が高校を卒業して故郷を離れるまで、いつも一緒に釣りに行ったものでした。

昭和20年8月5日、
当時広島で工業高校の教師をしていたこの広島の伯父は、5日中に呉(くれ)の造船所にいかなければならない任務があり、生徒を引率して呉に行ったそうです。
そして8月6日、広島に原爆投下
伯父と生徒たちは被爆を免れました。あとで伯母に聞いた話ですが、この伯父の葬式の時、その生徒たちが伯母のところに来て「先生に命を救われました」と皆がいったそうです。伯父は原爆投下直後の広島に帰りました。伯母やその子供たちは大島に疎開しており、無事でした。
8月7日、
長男の豊は、次男の彦人が原爆にあったものと思い広島へ、その行方を捜しにいったそうです。二人ともヒロシマの惨状(※企画展参照)を見たはずです。そして二人とも放射能を浴びていたはずですが、特に原爆症で亡くなったわけではありませんでした。

もちろんその時、私は生まれていませんでしたが、自分の身内に8月6日と7日のヒロシマをその目で見た人間が二人もいたのに、一度もその話を聞いたことがありませんでした。伯父たちが生きていた当時は、私自身も戦争やヒロシマに関心がなく、私の方から聞くこともなかったのですが、二人の伯父もその体験を私に話すことは一度もありませんでした。"自分の身内にヒロシマの惨状を直接見た人間が二人もいたのに、生きているうちに話を聞いておけばよかった。" 今思うと残念で仕方がありません。

今から10年前、1995年、被爆50年の広島でライブを行いました。
広島の伯母や広島で暮らす親戚一同が見に来てくれました。
「もし、この中に伯父の姿があれば…」と思ったものです。
年に二回、帰省するのですが、その時は東京から広島空港に降り立ちます。
島に帰る前、必ず原爆ドーム原爆資料館を訪れます。そこで微力ながら何とか自分なりにヒロシマを伝えていきたいと心に誓っています。

最後に、60年前のあの日、ヒロシマとナガサキで起きたことを
あの日…―『ヒロシマ・ナガサキ死と生の証言』より
日本原水爆被害者団体協議会[編]  新日本出版社  
の中から原文を引用させていただきます。

<広島 男 二一歳(被爆時)被爆距離三・0km以上>
五〜六歳位の男の子で、全身火傷で顔が焼けただれて目が見えない。
その子供は、両親や兄弟のこと、自分の家にあった物とか食べ物など、その他いろいろな話を、一晩中語り通して、明け方水がほしいと言うので、私が水を飲ませると、その子は死んで行きました。

<広島 男 一六歳(被爆時) 入市被爆>
とりわけ忘れられないのが二階の男女子供10名ばかり、土間に裸のような状態で横たわり死の寸前で、土間には各人の尿がたれ流され、そばの他の人のところまで着き、これをさける元気もなく、また大便も一、二ヵ所あり強烈な臭気の糞尿の中を身をくねらせ苦悶し、そのうめき声をは正に生き地獄でどうすることも出来ず、入り口の一八、九歳の娘さんの腰に治療用の布切れをかけたのが当時一六歳の自分としては精一パイであった。

<長崎 女 三七歳(被爆時)  入市被爆>
向いの家のひろ子ちゃん(二二歳、挺身隊)の死にかた....。
今思っても、筆にもことばにもならない。まったくかわいそうだなあと思う。
目がとびでて、口も鼻も全部でてしまって、見るかげもない。私にむかって
「おばさん、お母さんのこと頼むね」といい、「(顔に)ハンカチかけてよ」「さようなら」・・・   それっきりだった。

NO MORE HIROSHIMA
NO MORE NAGASAKI